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桃太郎のFreedom|自由からの逃走とリキッド・モダニティ

桃太郎のFreedom|自由からの逃走とリキッド・モダニティ

自由を手に入れた人々が、なぜ以前より疲れた顔をしているのか。
鬼の支配を倒した桃太郎たちが直面したのは、自由そのものの重さでした。猿は「本当の自分」を見失い、犬は居場所をなくし、雉は平等の中で別の縛りに苦しむ。エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』とジグムント・バウマンのリキッド・モダニティを軸に、自由の裏側を物語と解説の二部構成でお届けします。

桃太郎のFreedom

鬼ヶ島では、鬼による支配が何十年も続いていました。身分は生まれながらに決まっており、親の仕事を子が引き継ぐことが当たり前で、誰もがどこかに「属している」ことで生きる場所を与えられていました。不自由ではありましたが、別の言い方をすれば、迷わずにすむ世界でもありました。
桃太郎は、そんな鬼ヶ島の理不尽に我慢ができませんでした。犬や猿たちとともに立ち上がり、長い戦いの末に鬼どもを制圧することに成功したのです。
民主政が敷かれ、奴隷制は解体され、次々に法が整備されていきます。身分制という古い檻が取り払われ、誰もが自由に生き方を選べる時代が到来しました。
桃太郎自身は、首相などのポジションへという声を辞し、フリーランスのライターとして身を立てることにしました。組織に縛られず、書きたいことを書く。それが彼の選んだ自由の形でした。

自由が訪れてから、数年が経ちました。
鬼ヶ島の経済は急速に発展し、文化も花開きました。結婚は親が決めるものではなくなり、職業も自分で選ぶものになりました。終身雇用は「時代遅れ」とされ、成果主義が導入され、人々は「自分らしく生きること」を求められるようになったのです。
桃太郎はフリーライターとして、そんな社会の変化を原稿にしながら静かに眺めていました。しかし最近、どうしても気になることがあります。
自由を手に入れたはずの人々が、以前よりも疲れた顔をしているように見えるのです。

ある夜、猿から連絡が入り、近所の居酒屋で会うことになりました。
テーブルに着いた猿は、ビールを一口飲んでから、ぽつりと言いました。
「ぼくさ、最近ずっと自分探しをしてるんだけど、全然見つからないんだよね」
桃太郎は黙って続きを待ちます。
「鬼ヶ島を一緒に旅したあと、世界中をヒッチハイクしてみた。インドにも行ったし、西海岸にもいた。でも『本当の自分』ってやつが何なのか、結局わからなかった。最近は1on1のコーチングとか受けてみてるんだけど、なんか、ビジョンを描けって言われるたびに、余計しんどくなる気がして」
「ビジョン、か」と桃太郎はつぶやきました。
「そう。鬼に支配されてたときは、少なくとも『倒すべき敵』がいたじゃないか。わかりやすかった。でも今は、自由に何でもできるって言われても、だからこそ何をすればいいかわからない。自由って、こんなに重いもんだったのかって」
桃太郎には、猿の言いたいことが少しわかるような気がしました。
フリーライターとして仕事をしている自分も、締め切りのない日の朝は、今日何をすべきかを決めるのに驚くほどのエネルギーがかかります。会社員の友人から「いいな、自由で」と言われるたびに、苦笑いで返すしかありません。

数週間後、今度は犬から連絡が来ました。雉も誘って三人でカフェで会おう、という話になりました。
いつもはきびきびした犬が、席に着くなり大きなため息をつきました。
「出向を打診されてさ、断ったら窓際に飛ばされた。まあ、正直に言うと、仕事自体はどうでもいいんだ」
「どうでもいい?」と桃太郎が聞きます。
「うん。それより、誰も俺のことを必要としてない、って感じが、きつくて」
終身雇用が前提だった頃、犬は「この会社の犬」として確かに存在していました。理不尽なこともあったが、少なくとも「居場所」があった。しかし成果主義の波の中で、業績を出せない犬は、じわじわとその場所を失っていきました。
「自由になったって言うけどさ」と犬は苦く笑いました。「どこにも属せなくなっただけかもしれないな、俺は」
しばらく沈黙が続いたあと、それまで黙って二人の話を聞いていた雉が、グラスを両手で包みながら口を開きました。
「私はたぶん、逆なんだよね」
「逆?」
「産休から戻ったら、ちゃんと責任ある仕事を任せてもらえることになったんだ。それ自体はすごくありがたいことで、会社は変わったと思う。でも……」
雉は言葉を選ぶように、少し間を置きました。
「子どもが熱を出しても、会議を抜けられない。深夜に資料を仕上げながら、これでいいのかなって思う。平等にしてもらったはずなのに、なんで以前より追い詰められてる感じがするんだろうって」
「平等に、しんどくなった、ってこと?」と犬がぽつりと言いました。
「そう言われると、そうかもしれない」と雉は小さく笑いました。笑い方が、どこか疲れていました。
桃太郎はふたりの顔を順番に見ながら、黙ってキャラメルマキアートを飲み干しました。
猿は自由が重くて身動きが取れない。犬は自由の外側に弾き出されて居場所をなくした。雉は自由と平等を与えられた結果、別の縛りの中に入った。
三人とも、戦って手に入れたはずのものの、違う側面に苦しんでいます。

桃太郎はその夜、机に向かって原稿を書こうとしましたが、一行も進みませんでした。
自由を手に入れるために、自分たちは戦った。それは正しいことだったと、今も思っています。鬼に支配されていたあの頃には、絶対に戻りたくない。
でも、何かが足りていない気がする。
かつて人々を縛っていた身分制や終身雇用というのは、確かに不自由なものでした。しかし同時に、それは人々に「居場所」と「役割」と「帰属先」を与えていた。大きな流れの中に自分がいる、という感覚を。
その「足場」が全部溶けてしまった今、人々は波の上で一人浮いているような状態なのかもしれません。
自由とは、どこへでも行ける、ということです。しかしそれは同時に、どこへ向かうかを自分で決めなければならない、ということでもある。その重さに、みんなが少しずつ、音を立てずに、疲れているように見えます。

翌朝、桃太郎は久しぶりに公園をひとりで歩きました。
ベンチに座っていたおじいさんが、鳩に餌をやりながら、こちらを見て言いました。
「あんた、何か悩んでるね」
桃太郎は苦笑いしながら、少しだけ話しました。自由になったはずなのに、みんな苦しそうだ、と。
おじいさんはしばらく鳩を眺めてから、こう言いました。
「昔、川に橋がかかったとき、渡し守がいらんようになってな。自由に川を渡れるようになったんだが、渡し守は途方に暮れた。橋ができる前は、渡し守に頼まないと川を渡れなかった。不便だったが、渡し守には仕事があった。橋ができてからは、誰でも渡れる。でも渡し守には、もう居場所がない」
おじいさんは立ち上がり、ゆっくり歩き去りました。
桃太郎はその後しばらく、ベンチに座ったままでいました。

答えは出ませんでした。
ただ、今まで「自由か、不自由か」という二択で考えていたことが、そんなに単純ではないということだけは、はっきりしてきた気がしました。
自由は、たしかに素晴らしいものです。しかし自由は、人が生きるために必要な「何かに属している感覚」「自分が必要とされている感覚」を、自動的には与えてくれない。その重さと、これから先もずっと、一人ひとりが引き受けていくことになる。
桃太郎は立ち上がり、また歩き始めました。
どこへ向かうかは、まだ決まっていません。
~おしまい~

解説①自由からの逃走

「自由」という言葉を聞いて、あなたはどんなイメージを持つでしょうか。解放、喜び、可能性——多くの人にとって、自由はポジティブな響きを持つ言葉のはずです。しかしドイツ生まれの社会心理学者エーリッヒ・フロム先生は、1941年に著した『自由からの逃走』の中で、その通念に真正面から問いを投げかけました。
フロム先生が着目したのは、20世紀前半のヨーロッパで起きた歴史的な出来事です。長年の抑圧から解放されたはずの市民が、なぜファシズムという新たな権威主義体制を自ら選び取ったのか。自由を勝ち取った人々が、なぜまた別の「鎖」を求めたのか。この問いを解き明かすために、フロム先生は人間と自由の関係を深く掘り下げていきます。

フロム先生によれば、中世の人々は確かに不自由でした。身分は生まれながらに決まっており、職業も居住地も選べない。しかしその代わりに、人々は「自分がどこに属しているか」を疑う必要がありませんでした。農民は農民として、職人は職人として、明確な役割と共同体の中に根を張って生きていたのです。
ルネサンスや宗教改革を経て、近代社会が到来します。身分制は崩れ、人々は「個人」として自由を手にしました。フロム先生はこれを「〜からの自由(freedom from)」と呼びます。束縛からの解放、という意味での自由です。

しかしここで問題が生じます。束縛から解放された人間は、同時に「属する場所」も失ってしまうのです。自分が何者で、どこへ向かうべきかを、誰も教えてくれません。この状態をフロム先生は「孤立と無力感」と表現しました。人は自由になったと同時に、深い不安と孤独の中に放り出されるのです。
この不安に耐えきれなくなった人間がとる行動をフロム先生は三つ挙げています。一つ目は「権威主義」で、強力なリーダーや組織に自分を預けてしまうことです。自分で決める重さから逃れるために、誰かに決めてもらうことを選ぶのです。二つ目は「破壊性」で、自分を不安にさせる世界そのものを壊そうとする衝動です。三つ目は「機械的画一性」で、周囲に合わせることで「自分」という輪郭を消し、不安を感じなくてすむようにすることです。SNSで多数派の意見に同調し続ける行動なども、この機械的画一性の現代的な姿といえるかもしれません。

フロム先生が真に目指していたのは、この「〜からの自由」の先にある「〜への自由(freedom to)」です。何かから逃れる自由ではなく、自分の意志で何かに向かっていく自由。それは不安を伴うものですが、同時に人間が本来持っている創造性や愛する力を発揮できる状態でもあります。フロム先生は、この「〜への自由」こそが健全な人間のあり方だと考えました。
本書が書かれたのは80年以上前ですが、フロム先生が描いた「自由の重さに耐えられず、新たな権威や同調に逃げ込む人間」の姿は、現代社会においても驚くほどの説得力を持っています。

解説②リキッド・モダニティ

ポーランド出身の社会学者ジグムント・バウマン先生は、2000年に著した『リキッド・モダニティ(液状化する社会)』の中で、現代社会の特質を「液体(liquid)」というメタファーで描き出しました。
バウマン先生によれば、かつての近代社会は「固体(solid)」の時代でした。国家、会社、家族、地域共同体——こうした制度や共同体は、個人の生き方に安定した「足場」を提供していました。どの会社に属するか、誰と結婚するか、どの地域に根を張るか。これらは一度決まれば長期にわたって人の生活を規定するものでした。不自由ではあっても、その不自由さが同時に安定の源でもあったのです。

しかし現代はどうでしょうか。終身雇用は崩れ、転職は当たり前になりました。家族の形は多様化し、地域の共同体は希薄になりました。デジタル技術の発展により、仕事も人間関係も場所も、かつてないほど流動的になっています。バウマン先生はこの状態を「液体化した近代」と呼びました。固定していたものが溶け出し、すべてが流れるように変わり続ける社会、という意味です。

液体化した社会では、個人はかつてのような安定した「足場」を持ちにくくなります。その代わりに手に入れたのは、自分の人生を自由に設計できる可能性です。しかしバウマン先生はその裏側にも目を向けます。足場を失った個人は、浮力を失った状態で波の上に立たされているようなものです。どこへでも行けるが、それゆえにどこに向かえばいいかもわからない。
バウマン先生が特に注目したのは、この社会における「アイデンティティ」の問題です。固体の時代には、所属する共同体や担う役割がアイデンティティの基盤でした。しかし液体の時代には、アイデンティティは自分で絶え間なく構築し続けなければならないものになりました。「自分らしく生きろ」「本当の自分を探せ」というメッセージが社会に溢れるのは、逆説的に言えば、アイデンティティがもはや自明のものではなくなったからこそです。

さらにバウマン先生は、液体化した社会における「消費」の役割にも言及しています。足場を失い、不安を抱えた現代人は、消費によって一時的に自分のアイデンティティを確認しようとします。どんなブランドを身につけるか、どんな体験をするか、どんなライフスタイルを選ぶか。しかしこうして手に入れたアイデンティティは、次のシーズンにはすぐに陳腐化し、また新たな消費へと駆り立てられます。
フロム先生の「自由からの逃走」が、自由の獲得という歴史的な転換点において人間が感じる不安を描いたとすれば、バウマン先生の「リキッド・モダニティ」は、その自由がさらに深化し、あらゆる足場が溶け出した現代社会の構造的な問題を描いています。二つの理論は時代を超えて響き合い、現代人の生きづらさの輪郭を鮮明に浮かび上がらせてくれます。

解説③物語の読み解き

物語の冒頭で描かれる鬼ヶ島は、フロム先生が言う「〜からの自由」を獲得する前の世界です。身分は固定され、誰もが「属している」ことで生きる場所を与えられていた。理不尽ではあるが、バウマン先生の言葉を借りれば「固体の時代」の安定がありました。
桃太郎たちが鬼を倒し、自由と平等をもたらしたことで、鬼ヶ島は一気に液体化した社会へと移行します。終身雇用の崩壊、成果主義の導入、「自分らしく生きること」の要請——これらはまさにバウマン先生が描いた液体近代の光景です。

居酒屋で桃太郎と向き合った猿の苦しさは、フロム先生の言う「自由の重さ」そのものです。「倒すべき敵がいたときはわかりやすかった」という言葉は示唆的です。束縛があった時代には、目標は外側から与えられていました。しかし自由を得た今、何を目指すかを自分で決めなければならない。コーチングでビジョンを描くよう促されるたびに余計しんどくなる、という猿の感覚は、「〜への自由」を自力で構築することの困難さをよく表しています。

犬の苦しさは、少し異なる層にあります。成果主義の波に乗れなかった犬は、会社という「固体の足場」から弾き出されてしまいました。「どこにも属せなくなっただけかもしれない」という言葉は、液体化した社会において帰属先を失うことの痛みを正直に語っています。自由を謳歌しているのではなく、自由の外側に取り残された存在として犬は苦しんでいるのです。
雉の苦しさはまた別の形をしています。マミートラックの問題は、自由や平等が制度として整備されたにもかかわらず、その「自由」が新たな縛りを生む逆説を示しています。育休後に責任ある仕事を任されることは、確かに平等の実現です。しかしそれは同時に、子育てと仕事の両立を個人の「自己責任」として引き受けることを意味します。液体化した社会では、制度的な自由が広がるほど、その自由を行使する責任もまた個人に集中していきます。

三者三様の苦しさを目の当たりにしながら、桃太郎は内心でこう整理します。猿は自由が重くて身動きが取れない。犬は自由の外側に弾き出されて居場所をなくした。雉は自由と平等を与えられた結果、別の縛りの中に入った。これは偶然の一致ではなく、液体化した社会が生み出す構造的な問題の三つの顔です。
公園で出会ったおじいさんの「渡し守の話」は、この構造を別の角度から照らします。橋ができて川を渡る自由が生まれたことは、疑いなく良いことです。しかしその自由は、渡し守の「居場所」と引き換えに得られたものでもありました。自由の拡大は、必ずそれまでの秩序の中で生きていた誰かの足場を溶かすことと表裏一体なのです。

物語はきれいな答えを出しません。桃太郎は「どこへ向かうかはまだ決まっていない」という状態で歩き始めます。これはフロム先生が言う「〜への自由」を、まだ手探りで探している姿です。自由の問題に、あらかじめ用意された正解はありません。しかし、その問いを持ち続けて歩くことそのものが、おそらくフロム先生の言う「〜への自由」への道筋なのでしょう。
最後に一つ。フロム先生もバウマン先生も、自由を否定したわけでは決してありません。二人が描こうとしたのは、自由の「裏側」を直視することで、人間がより豊かに自由と向き合えるようになることでした。この物語もまた、同じ問いかけを静かに手渡しています。

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